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特集・企画

日大新聞で振り返る100年<第1部 本学と日本の歩み>   <4>「1949年」

体制刷新と二つの希望

 第二次世界大戦に敗戦し、アメリカの対日占領政策の一環として教育改革を迫られた。本学も「新制大学」としての一歩を踏み出そうと奮闘していた。その中で大学を活気づけたのは、2人の水泳選手と創立六十周年記念祭だった。

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戦勝国のアメリカから戦争責任の多くは教育に原因があったと指摘され、日本は教育制度の改革を断行せざるを得なくなった。それに伴い、複雑だった学校体系を見直し、大学では新設された設置基準に従った「新制大学」への移行を迫られた。

新制大学は文部省(現、文部科学省)に申請し、許可された学校のみが認められる。1948(昭和23)年9月の方針決定と申請書提出に伴い、記者5人のほか、田中教務部次長ら合計11人で座談会を実施。その模様は49(同24)年1月25日付の第446号で取り上げた。その中で田中教務部次長は新制大学設置事務局の開設から「協議会審議会をあわせて三百四十回も開き、その出席人員延一万二千五百人」と話すほど、大学を挙げての取り組みだった。

本学に許可が下りたのは同年2月。大学学部を4年制とし、法、文、経済、芸術、工(現、理工)、農、第二工(現、工)の7学部34学科が認可され、次年度から発足することが正式決定した。中でも芸術学部は当時国内初の認可で、唯一の総合芸術教育の殿堂として産声を上げたことから、本紙は同年4月10日付(第449号)で特集している。

国際大会への復帰

こうした四苦八苦の末、新制大学としての一歩をたどった本学に一つの朗報が入る。本学学生だった古橋廣之進(ひろのしん)や橋爪四郎などが水泳の国際大会に出場できることになったのだ。本紙でも「水上日本の一大朗報 古橋・橋爪国際プールえ!!」(原文通り)と題し、49(同24)年6月25日付(第453号)の1面トップを飾った。

当時日本は戦争責任から国際大会出場を認められていなかった。48(同23)年のロンドンオリンピックにももちろん出場は許されない。そこで日本水泳連盟はロンドン大会と同じ日程で日本選手権を開催。古橋と橋爪は1500㍍自由形に出場した。そこでたたき出した18分37秒0(古橋)、18分37秒8(橋爪)は世界新記録だった。いずれも公認記録にはならなかったが、ロンドン大会優勝者のタイムを40秒以上も上回っていた。

古橋らが世界記録を出した翌年、日本の国際大会復帰が認められ、ロサンゼルスで開かれる全米水上選手権の参加が決定。古橋は出場した4種目で世界新記録を塗り替えた。本紙では49(同24)年9月10日付(第455号)で「水泳日本の誇り」と題し、「疲れも知らず古橋元気で帰る」という絵解きが載った写真とともに、栄光をたたえた。

創立六十周年記念祭開催

朗報は続く。49(同24)年10月4日に開催される創立六十周年記念式典に、昭和天皇が出席することになったのだ。同年9月26日付の第456号で「大学当局により一大朗報が非公式に発表され全学園は感激にもえたつている(もえたっている)」と歓喜に湧く様子を伝えた。

本紙は同年10月10日付(第457号)で3面分に渡って紹介した。さらに芸術学部の協力の下、B4判合計36ページの記念アルバムを発行。昭和天皇が御言葉を述べられる場面などの写真を約150枚も掲載した。アルバムの発行を本紙で知らせるや否や「物凄い反響を呼び、各方面から問合せや申し込みが殺到」したという。(本紙同年11月10日付第458号)

戦後、悪戦苦闘した本学に2つの朗報があったことは着実に復興の方途につながった。その後本学は「世界的総合大学」への道を模索していくことになる。

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