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特集・企画

日大新聞で振り返る100年<第1部 本学と日本の歩み>    <3>「第二次世界大戦」

翻弄された「日本精神」

日中戦争の戦端の幕が切って落とされた。本学では奉仕隊や報国団が相次ぎ結成され、本紙紙面は戦争一色に染まっていく。その渦中で本学の建学理念の一つである「日本精神」も偏狭な意味合いに姿を変える。

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1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。近衛文麿内閣はすかさず翌月に「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定した。「挙国一致、尽忠報国、堅忍持久」をスローガンに掲げて国民に決意を促し、戦争への全面協力を求めた。

本学はこの国民運動に賛同し、同年9月30日に全学による「国民精神総動員大会」を開催。本紙も10月1日付(第282号)で2面建ての臨時増刊号を発行、大会の模様をつぶさに報道した。

「蜿々(えんえん)長蛇の一大行進」。そう題した同大会の記事によると、山岡萬之助第3代総長が「建学の趣旨に従ひ大に日本精神の発揚」に努めると訓示を述べ、学徒1万人らが二里(約8㌔㍍)にわたる大行進をしたという。本紙はこの特集記事をもって「国民精神総動員の一助」とすると記した。

初の奉仕隊を結成

国家総動員体制の強化が叫ばれる中、本学は39(同14)年11月に法文学科奉仕隊を結成。課外活動の一環として勤労作業奉仕などを行った。本紙は、これを学生自らが主体となって粛々と行う「真」の奉仕隊であると説いた。

また本紙11月10日付(第325号)では大学などの中で、当時初めて組織化された奉仕隊であり、文部省から注目される存在でもあったと伝えている。その1年半後には、学部学科ごとに分かれていた奉仕隊を全学規模にまとめ、日本大学報国団として一大結成した。

このように戦時体制下の本学は他校に先駆けて戦争に協力する体制を整えていった。この背景には山岡総長訓示にある建学の趣旨に従った「日本精神」の解釈があるのではないかと、本学企画広報部大学史編さんの職員は話す。

本学の掲げる「日本精神」は高梨公之第7代総長が76(同51)年の副総長時代に講演で説明している。それは「日本人としての主体性を持ちながら、広く世界に目を向けること・・・(中略)断じて偏狭なものでないこと」として本学の前身である日本法律学校から受け継がれてきた。

この考えのゆえんは同学校設立構想に賛同した学祖・山田顕義が岩倉使節団帰国後の報告書で語っている。欧米諸国の良いところは取り入れ、日本の残すべきところは残す取捨選択をするべきだとの主張だ。この考え方は設立主意に「海外法理と雖(いえども)、我邦法学の参考に供すべきものは之を参考」として明記されている。

世界を踏まえて日本を考える「日本精神」は本学の目的および使命であり、総合大学となってからも大切にされてきた精神だ。しかし、33(同8)年の国際連盟脱退などで国際的に孤立した戦時下の日本では「広く世界に目を向ける」ことができず「日本精神」という言葉は、国家への協力という側面が強く意識された。これが本学の戦争への積極的な協力につながった要因と言えるのかもしれない。

戦地にも本紙配布

本紙は戦地で活躍する兵士たちにも届いていた。兵士からの手紙を掲載する「戦線だより」「戦線より」などでは本紙送付への感謝の言葉が並ぶ。中でも39(同14)年9月5日付の第321号では校友工兵の神代進中尉からの通信で、本紙を読み「只々(ただただ)涙を流し感謝致して居る」とつづられている。石川徳幸法学部准教授(日本ジャーナリズム史)は「新聞などは戦地に慰問品として積極的に届けられていた。本紙もその一つではないか」と分析する。内地の様子が分かること、何より遠く離れた母校の大学新聞を手にすることは他には代え難い励ましになったのだろう。

戦地にいる兵士への情報伝達に一役買っていた本紙だが、戦局が悪化するにつれ用紙不足が深刻化し、44(同19)年の夏で休刊となる。その後日本は広島、長崎の原爆投下を受け、45(同20)年8月15日の玉音放送をもって、終戦を迎えた。そして日本は未曾有の戦後復興期に突入していく。

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