日大新聞で振り返る100年<第1部 本学と日本の歩み> <2>「1920年代」
普選熱に沸いた大正後半
いわゆる「大正デモクラシー」が花開いた1920年代。政治参加を通じて国家に貢献したいと切望する青年たちの心をとらえたのは、普選運動だった。1921(大正10)年創刊の本紙も例外ではない。創刊直後から普選実現の大義を説く記事を繰り返し報じた。普通選挙法の下で初の総選挙が実施された28(昭和3)年まで、本紙が掲載した関連記事は20本を超える。国民の政治参加の意義を信じ、訴え続けたその姿勢は「新聞界に一新生面を開拓」するという、本紙創刊号が掲げた理想の追求そのものだった。
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明治20年代末から続いていた普選運動の熱は、第一次世界大戦後の、いわゆる大正デモクラシーの中でとみに高まった。日大新聞が初めて「普選」関連記事を掲載したのは大正11年1月27日付の第5号。1面トップの「学生と普選」と題した記事は「今の総(あら)ゆる若人は一様に而(しか)も熱心に普通選挙の即刻実施を要望してゐ(い)る」と主張した。それは、政府案にあるような制限選挙ではなく、成人男女による完全な普選こそが望ましいとの主張だった。この記事が、女性参政権を認めた米国を例に、女性の政治参加をも訴えたのは必然だった。
こうした主張の背景には、当時の学生が置かれた社会的状況があった。従来の選挙権は納税額3円以上、満25歳以上の男子に限られた。人口の約5・5%に過ぎない。一方で、日大生に限らず、当時の学生は日中に仕事をこなして生計を立てて学費を捻出する「苦学生」が少なくなかった。たとえ25歳を超えても、選挙権を持つ学生は少なかったのだ。
大正13年に入ると、普選運動は多くの大学で関心を呼ぶ。同年1月20日付の紙面は、東京帝大や早稲田大など「帝都」の主要大学を含む全国の大学、高等学校、専門学校の学生による「全国学生普選連盟」が結成され、本紙記者もこれに参加したことを報じた。
2月5日付紙面は、同月1日から3日にかけて東京・芝公園や現在の新橋付近などで「学生普選デー」が開催されたことを速報した。学生たちはビラ約50万枚をまき、一つ5銭の「普選マークバッジ」を販売し、普選実施要求を訴えたという。
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普通選挙法は大正14年に加藤高明内閣の下で成立した。納税額による制限はなくなったが、年齢は従来と変わらぬ満25歳以上の男子。有権者は国民全体の約20%、約1240万人に増えたが、女性は除外された。
普通選挙法と同時に、悪名高い治安維持法も成立した。選挙権拡大により、社会運動の過激化を恐れた政府が、とくに共産主義運動を取り締まるために成立させたものだ。
新しい普通選挙法の下で昭和3年2月20日に実施された衆議院議員選挙では、労働者や農民の利害を代表する無産政党から8人が当選。これに呼応するように政府は、治安維持法の罰則の最高刑を死刑に引き上げ、反国体思想なども取り締まり対象となった。大正から昭和へのこの時期、デモクラシー謳歌(おうか)の風潮は一転、歌人の石川啄木が「時代閉塞の現状」で描いたような、青年にとって八方ふさがりの時代が現出する。
普通選挙法成立後、本紙の紙面からは普選実施要求や政府批判記事が唐突に姿を消す。この間、紙面で治安維持法へ言及した記事は1本だけだった。
以来、本紙には中国における日本の利権に関する記事や「軍事教育」など戦争に関する記事が増えていく。大陸における日本の国益追及の動きは本紙創刊から10年後の満州事変につながる。さらにその10年後、日本の近代史は真珠湾奇襲によって一挙に暗転する。
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