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特集・連載

日大新聞で振り返る100年<第1部 本学と日本の歩み>   <1>「本紙創刊前夜まで」

「日本大学」誕生

1918(大正7)年の大学令により「日本大学」が誕生して3年後、日本大学新聞は創刊された。国力伸張を背景に、国外では列強としての地位強化、国内ではデモクラシーの深化を求める青年の声が次第に高まった時期。総合大学への道を本格的に歩み始めた本学で、当時最先端メディアである新聞を学生の手によって作ろうという機運が醸成されたのは必然だった。

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本学の前身「日本法律学校」の創立は1889(明治22)年。1918(大正7)年には「大学令」が公布され、本学など多くの私立学校が正式に「大学」に昇格した。この間、帝国日本は日清、日露の二つの戦争に勝利し、第一次世界大戦では戦勝国側に名を連ね、大戦後は「五大列強」の一つに数えられる地位を得た。

国内では資本主義の発展に伴い、政治・社会・経済上の自由・平等を求める大正デモクラシーが花開いた。さらに、ロシア革命の影響によって社会主義思想が台頭。労働、社会問題の研究は急務となっていた。本学は大学昇格の年、他大学に先駆け「社会科」を設置。その中に「新聞学」講座を置き、当時東京二六新聞の記者で後に「日大新聞」初代社長となる工藤鉄男が講義を担当した。
法律学校時代は東京帝国大学の教授や講師らが本務をおえてから講義を担当していたため、夜間授業が中心だった。しかし、このころには昼間授業が増え、学生活動が活発化した。雄弁会が演説会や弁論大会を頻繁に開催したのもこのころだ。

当時、演説会は情報や言説を広める上で欠かせないメディアだった。世耕弘一や吉田勘三のように雄弁会に所属しながら、最先端メディアである新聞の創刊に関心を抱き「日大新聞」の創刊に名を連ねた学生は少なくなかった。

こうした中で学園新聞創刊への機は確実に熟していった。21年になると、教員の間でも「大学としての機関新聞」が必要だとする声が盛り上がってきた。

有志集結

「社会科」に設けられた新聞学の講座に集まった学生のうち池田正之輔、佐渡高一、世耕、吉田らが本紙創刊の母体となる「日本大学新聞会」を設立したのは19年。同年には第1回新聞学会記念講演会も開催された。21年6月26日には第2回講演会が開催され、日本資本主義の父とされる渋沢栄一やジャパンタイムス副社長の芝染太郎など著名人を招いて講演会を開催した。

後に政界に身を転じることになる池田は、新聞会幹事に雄弁会の役員6人引き込むなどの政治力を発揮、当時の本学常務理事でのちに第3代総長となる山岡万之助の信頼を得た。

本学入学前にハワイ新報やロス新報の通信員として記事を書いた経験のある佐渡は取材・執筆の技術面を担当した。佐渡の親友で慶応大の三田新聞で編集を担当していた高山福良は、佐渡らの志に感銘を受け本学に転学。新聞会の会員として、レイアウトや紙面の大組みに関する知見を提供した。

21年9月25日に開催された「日本大学秋季学生大会」では、参集した800人余の学生が満場一致で本紙の発刊を可決した。会の司会は世耕、演説は吉田が務めた。

開校時に200人程度だった学生数は21年には1万人近くに達した。高等師範科(現、文理学部)、商科(現、経済、商学部)、高等工学校(現、理工学部)、美学科(現、芸術学部)が設置され、東洋歯科医学専門学校(現、歯学部)の合併などにより、本学は総合大学への道を着々と歩み出した。
「母校に関するありとあらゆる記事を網羅」して載せるという「日大新聞」が創刊されたのは同年10月15日。時代が目まぐるしく移り変わる中で、本紙は母校とともに100年の歴史を刻み始めた。 (敬称略)

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